2011年3月 地震関連ブログ

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<3月15日>

僕は普段は横浜に住んでいるのだけれど3月10日から帰省していたのでまさかの地震被害をこうむることになってしまった。

 

とはいっても、僕の実家は青森市旧浪岡地区。地震津波で家が壊れることもなく、家族も僕も全員無事です。

 

アクセスログを見ると…地震当日である金曜にアクセス多数ですね。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。

 

僕は被害らしい被害は特になくて、ちょっと2日ばかり停電になったのと、夜行バスでは帰れなくなったので飛行機で帰ってきたぐらいです。

 

ニュースで流れている、津波の映像を見るたびにゾッとします。同時に、自分は幸運な方だと感じています。

 

被害に遭われた方の一日も早い復興を願っています。

 


<3月9日>

せっかくだから、休日の話を書こうと思う。

 


僕は3月9日から12日まで休みを取っていたのだが、その初日の3月9日、

 

 

 

渋谷にいた。

 

 

 

渋谷なんて一生降りることのない駅だと思っていた。なぜ降りたのかというと、

 


よつばと10年1日展

 


が開催されていたからである。2011年3月16日現在この催し物は地震の影響を考慮して休止されている。こういう言い方はアレだが、見に行けたのは非常にラッキーであったと言えよう。

 


わぁい☆ダンボーがおる☆

 


カレンダーは撮影不可だったんですけど原画は撮影可だったんですよね。でも載せていいものかどうか…。

 


あと意外とカップルが見に来ていたのがむかつく。いや、別にいいですけどね。畜生。幸せになれ、畜生。

 

 

 

 


9日の夜、横浜バスターミナルからノクターン号に乗り込む。ネオデイを服用し快眠。このときはまだ、あんなことになるなんて知る由もなかったのである。マジで。

 


<3月10日>

この日の朝7時。青森県弘前市弘前バスターミナルに到着。

実家から迎えに来てくれた父親のアテンザに乗り込み実家へ。3月なのに圧雪路面とはさすが青森だ、などと思っていた。

 


祖母がなんとボケから回復していた。去年の夏に酷い状態だったので、もう駄目だと覚悟していただけに嬉しかった。

 


午後からは小学校来の友人ふたりとカラオケに行った。薬剤師の友人が、月収40万だという話を聞いた。少し泣きそうになった。世の中は業務独占資格を持つ者こそが絶対正義だった。

 


そのあとPS3の「キャサリン」というゲームをやらせてもらった。立方体の箱が重なっているステージを、箱をずらしながらどんどん登っていくというパズルゲームのようなゲームだった。パズルゲームと言っても登り方はいくつもあり正解はひとつではない。とても面白かったが僕はPS3を持っていないので3DSあたりで続編が出るといいなと思った。

 


23時に解散。その日は実家に泊まった。

 


<3月11日>

先に断っておくが先日も述べた通り僕の実家や家族は地震津波の被害らしい被害は特に受けていないのでご安心いただきたい。

 


ただ僕個人としては、とても怖かったし不安でもあった。神奈川にしばらく戻れないのではないか、とも考えていた。

 


この日は夜行バスで横浜へ出発する予定だった。

 


実家に帰ると無性に車を運転したくなる。でも僕の愛車であったスバルR2は弟の手によりスクラップにされてしまった。だから、軽トラを運転するのである。

 


実家に帰ると毎回一人で五所川原方面へドライブすることにしている。弘前市内は混んでるし青森市街は遠い。そんなわけで僕にとっては五所川原が適当な街だった。

 


実家に置いてあった漫画やラノベを古本屋へ持ち込んだ。70冊で2000円と買い叩かれた。古い物が多かったし、まあ、仕方がないと思った。

 


つがる市ジャスコをひととおり回った後鯛焼きを買って、駐車場でエンジンをふかしながら鯛焼きを食べていたときだった。

 


ふと、車が揺れたような気がした。しかし当時津軽地方は吹雪いており、「風が強いのかな?」くらいにしか考えていなかった。

しかし風に煽られるにしてはおかしい。橋の上でもないのに。と思い、カーラジオを付けると、「地震だ」と報道していた。

 


「宮城で震度7」と言っていたのですぐに知り合いの津軽ユンボさんにメールをした。このメールの返信が来るは14日の事になる。

 


このとき僕はまだ事の重大さを理解していなかった。

いくら宮城で震度7だろうと青森では何も影響もないだろう、津波が来たって実家は内陸部だし神奈川はそんなに揺れてないだろうし関係ない、今夜夜行バスに乗って明後日からまた仕事だ、と考えながら帰路についた。走行している途中、あることに気付いた。信号が点灯していないのだ。よくよく見れば道路沿いのコンビニやファーストフード店の店内が真っ暗である。この辺りから、今回の地震はもしかしたらただ事ではないのではないかと考え始める。

 


自宅に着くとやはり停電していた。祖母の無事を確認。暖房が機能停止していたので、昔使っていたダルマストーブを引っ張り出して暖をとった。ラジオを付けた。東北全域で停電、と言っていた。家はガスと水道は通っていた。

 


被害が大きかった地域と比べたら、被害なんて無いに等しいのだけれど、それでも僕にとっては、停電しているというただそれだけで、不安で仕方がなかった。寒いし。

 


夜行バスが走るかどうか弘南バスに問い合わせようと何度も電話を掛けたが繋がらなかった。まあ、今思えば地震のその日の夜に高速道路はおろか一般道さえ通ることは出来なかったわけだが。

 


翌日は、余震で目覚める事となる。

 

 

 

<3月12日>

朝4時頃。余震で目を覚ます。新潟辺りで揺れたらしい。

 


8時頃、なんと朝刊が届いた。新聞によると、太平洋側の広い範囲で被害が出たらしい。岩手県宮城県では大津波が来て、沿岸の街が全部流されてしまったらしい。更に東京、千葉では火災発生、おまけに福島の原子力発電所がヤバい事になっている。日本全国が大変なことになっている。ここで僕はやっと危機感を覚え始めるのだった。神奈川に帰るどころではない、と。

 


16時頃、津軽地区が停電から復旧した。テレビは全局地震のニュースで、津波の映像を繰り返し流し、たまに原発の話題、という感じであった。CMはポポポポーン。

 


メールがなんとか通じ始めたのもこの頃だった。横浜の同僚から何通かメールが届いていた。無事を知らせるために返信しようとしたが、なかなか送信できなかった。それでも何とか返信した。ツイッターにも書き込んだ。

 


先述の薬剤師の奴からもメールが来ていた。「まだ青森にいるのなら明日暇だからつき合え」というものだった。

 


祖母、父、母、弟。みんな無事であることに感謝しなければならない。家族と一緒にいたかった。停電は復旧したが、食べ物は売ってないし燃料も無くなりそうだった。しかし家族は、職場に迷惑になるから早く帰れと言った。実際両親は昼間働きに出るし、地元に残っても、やること、出来ることはほぼ無かった。

 

 

 

<3月13日>

 


この日やっと職場へ電話が繋がる。まだ青森にいます、すみません、と伝える。無事でよかった、無理はしなくていいが早く帰ってきてと言ってくれた。

 


僕の実家はパソコンがない。件の薬剤師さんに頼み込んでネットで飛行機の予約をする。

 


その後弘前へ向かう。

夜行バスの払い戻しと飛行機の払い込みをする。夜行バスは片道分全額戻ってきた。よかった。

 


その後薬剤師さんの目的である中古車屋に行った。車を買い換えるらしい。よくわからないが全国規模で中古車のオークションが行われており、店が競り落とせたら、それを売ってくれるらしい。

 


薬剤師さんのおかげで'(パソコンを貸してくれたので)14日夜に神奈川に戻れることになった。彼には感謝しなければならない。

 


<3月14日>

この日はじじいの命日だった。家族で寺へ行った。

予定通りの滞在だったらじじいの命日に寺に行くなんてことは出来なかったわけで。

複雑です。

 


その後飛行機の出発時刻までのんべんだらりとすごす。テレビはやはり原発津波とACのヘビーローテーション

 


20時45分、青森空港を出発。飛行機に乗ると頭痛がするのであまり乗りたくはないのだが、今回は仕方がない。

 


か、勘違いしないでよね!別に飛行機は早くて便利だな~なんて、これっぽっっっちも思ってないんだからねっ!

 


22時過ぎ羽田着。

なんだか自分だけ逃げ帰ってきてしまった気がするが、僕の生活はこちらなのだ。

羽田から京急で自宅まで戻ろうとした。が、しかし。駅員さんから驚きの情報を聞かされる。

 


「蒲田~横浜間は現在運転しておりません」(もちろん14日夜時点での話です)

 


なんだそりゃ。

何のための京急だよ…と思ったが、非常時だし仕方がない。京急蒲田から徒歩でJR蒲田へ移動し乗り換え、そのまま新杉田までJRで帰った。

 


自宅に着いたのは日付がかわる瞬間だった。部屋の中は、棚から少しものが落ちていた。その程度だった。

 


次回より通常運用に戻ります。